シスター熱く語る
昨夜の聖書の勉強会はたった二人だけでした。
聖書の箇所は使徒言行録のパウロが宣教旅行からエルサレムに帰ってきて捕らえられる場面。
パウロは(他の使徒達もそうだったらしいが)、死を恐れなかった。
エルサレムの民衆の前で、イエスのことを力強く証した。
他の者たちがエルサレムに戻るのを止めても、捕らえられるのを分かってなお戻っていったのだ。
『しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証するという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。』(使途言行録20章24節)
どうしてそこまでできたか?とシスターに尋ねられる。
(祈りの集いのシスターと同人物)
シスター曰く、
パウロは最初はイエスを信じる者を迫害していた。そして生前のイエスには会ったことがない。そのパウロがなぜ、会ったことがない人物について迫害していたイエスを信じることができたのか。
復活したイエスに会ったので復活に確信を持っていたからではないだろうか。
と。なるほどと思ったが、じゃあ「復活したイエスにもし会ったらあなたは信じるか?」と聞かれ、うーんと考えてしまった。
会ったことないし(^^;)
それから、昨日は信者でない二人だったので話がどんどん脱線していった(笑)
今の時代は、不信の時代だそうだ。あなたが一番信じられるのは何かという、とある新聞のアンケートがあったらしいが、一番多かった理由は【家族】だったそうだ。
詳しいランキングは知らないが、【宗教】はだいぶ下のほうだったらしい。
そんな話をいろいろしていて、また聞かれる。
私は、その新聞の見出しである「不信の時代」になってしまったのは、『物質至上主義』に大きな原因があるのではないかと思っていたのでそう答えた。
こんなに滅び行く、しかも求めてもきりがない物質を求め、物質に依存し、一時的な満足を得ていては、心は崩壊していくばかりだと思う。
たしかに高度経済成長は必要だったかもしれない。
でも、経済成長の脇に追いやられ置き去りにされた大切なものがあるような気がしてならない。
私がいまこうやってほとんどの人に隠してでも教会へ行き聖書を学んでいることは救いだ、とシスターは行った。
私は「せっぱ詰まってたんですけど…」と言ったが、それが救いらしい。
最後のその言葉だけ、意味がわからなかった。
でも今回はすごくシスターが熱弁を振るっていて、話がおもしろかった。
それも特に脱線したほうの話が。学校の授業みたいに(^-^)